先日、懐かしいテレビ番組の動画をSNSで発見した。
スピリチュアルや霊的なものに対して批判的なグループと、それを肯定するグループのみっともない喧嘩討論。
そこに[存在]しているエネルギーは、お互いが自分たちの主張こそが正論であると押し付ける[エゴ]と、汚い言葉による荒く波動の低いエネルギーである。
スピリチュアル肯定派も結局のところは、否定派に対して納得して貰えるだけの説得力を持たず、ただ声のボリュームだけが上がり、スタジオの客席から失笑がもれている。
この動画を観ながら感じたこと…。
信じる派と信じない派、この両派は[意識]の次元が違うのである。
例えば、小学1年生の子供に中学や高校、ましては大学の存在を説いたとしても、そんな事はどうでもいいのである。
小学1年生に見える景色なんて、目の前に見える景色で精一杯なのである。
せいぜい、一つか二つ上の学年に意識が及ぶのがいいところであろう。
しかし、歳の離れた兄弟がいた場合は、少し事情が異なってくる。
歳の離れた兄弟(先人)のもたらしてくれた情報により、その子は他の子と比べ[意識の次元]が少し違ってくるのである。
他の子供では意識できない[中学]や[高校]が薄っすらではあるものの、意識の中に存在しているのである。
また、スピリチュアル肯定波も[信じる]事のできない人たちを無理やり説得する事こそが、自分の波動を下げてしまっている[痛さ]である事に気づくべきであろう。
人間は年齢や社会的ステータスに関係なく、[意識の次元]は異なるのである。
意識の[次元]を引き上げるには、生きる中で[学び]、[気づき]、[成長]することが全てである。
では、何を学び、何に気づけばいいのだろうか。
[愛]を学ぶのである。
エゴではなく、他に注ぐ[愛]を。
内側が[愛]に満たされたとき、スピリチュアルの[景色]は見え始めるのだ。
否定も肯定も、どっちだっていい。
間違いなく内側が[愛]で満たされれば、その[景色]は見えてくる。

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