究極の「ありがとう」

一般的によく言われる、

[感謝の心をもちましょう]

という教え。 

我々は生きる中で他者から恩恵を受けたとき、感謝の想いを[.ありがとう]という言葉に託し、相手に伝えている。

あなたは、沢山の[ありがとう]を伝える事ができていますか?

日々、沢山の[ありがとう]を伝える事が出来ているならば、それは恩恵を沢山貰っている証。

でも、その[ありがとう]は心の底から湧き上がる[感謝]ですか?

口先だけの[ありがとう]になっていませんか?

もし、そうであるならば、与えられた[恩恵]に気づけていない証。

[恩恵]に気づくからこそ、心の底からの[ありがとう]が伝える事ができ、自分の[幸せ]に気づく事ができるのである。

自分はこんなにも[恩恵]を与えられている…。

幸せだ!と…。

自我の強い人間は、そこに気づく事が出来ず、他者から受けた恩恵も、自分の求めるもの以外には[感謝]に至らずに、口先だけの[ありがとう]になってしまう。

[謙虚]という言葉があるように、

[自分なんかの為に…]

そこに気づかなければいけないのだ。

[自分なんか…]

そこに気づけた時、相手から受けた[恩恵]を心の底から受け取ることができ、そして心の底から[ありがとう]が伝えることができるのである。

自我(エゴ)が強いほど、[幸せ]は遠のいていく。

自我が求めるほどに、[それ]は逃げていく…。

身のほどを知るのである。

助けられ、支えられている事に気づけた時、人は謙虚になれるのである。

そして、それは[感謝]のエネルギーに変わっていく。

本物の[感謝]に…。

そして、究極の[ありがとう]こそが、両親に対しての[産んでくれて、ありがとう。]なのかも知れない。

それは前回の投稿のテーマである、[輝く]と繋がるのである。

この世を生きる中で、[輝き]を放つ事ができたとき、その[感謝]に辿り着けるのかも知れない。

[産んでくれて、ありがとう!]に…。

[感謝]のエネルギーの重さは、まるでボクシングの階級のようにも感じる。

ボクシングは例え軽量級であろうとも、全身全霊で向き合うスポーツである。

[感謝]も同様に、例え小さな[恩恵]であっても、心の底からの[感謝]で向き合わなくてはいけない。

それが、真の[心]なのである。

そこに辿り着いたとき、[幸せ]を実感できるのだ。

[追記]

今回の投稿のテーマ

[ありがとう][感謝]について、

僕は行きつけの喫茶店でコーヒーを飲みながら、今回の投稿を執筆していた。

その途中、書きかけであったが、僕は次の予定があった為に、店を一旦出て帰路についた。

途中、信号待ちをしていると、ドアミラーに後続車の運転手の男性が車を降り、こちらに向かって来る姿が映った。

なんだろう?

と思い窓を開けると、

その男性は、

「右後ろのタイヤ、空気が少ないからパンクしてますよ!」

と知らせに来てくれたのだ。

わざわざ車から降りて、僕なんかの為に知らせに来てくれて…。

僕は精一杯の笑顔と、感謝の想いを[ありがとう]に載せて、その男性に伝えた。

パンクの不幸なんかよりも、僕の為にわざわざ知らせに来てくれた男性の行為に、僕は[幸せ]を感じるのであった。

そして、今回も見事なまでのこの[シンクロ]に、宇宙と繋がる実感を覚えるのであった。

繋がっている。

高次元と…。

そして、この今の生き方で間違ってないんだと実感するのである。

僕なんかの為に、ありがとう!

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