雨ニモマケズ…

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

宮沢賢治の詩である。

この詩は、宮沢賢治が病気で亡くなった後に発見されたものである。

病床に伏しながら、書かれた詩であることが伺える。

それは最後の二行でわかるように、[死]に向かう悟りであり、輪廻への希望か…。

今度生まれたときは、こう生まれたい。

そして、

こう生きたい。

この詩を知ったきっかけは、小学生の頃の授業であったろうか…。

以来、

[雨ニモマケズ]

[風ニモマケズ]

このフレーズは、困難と向き合う時に、僕の中で必ず浮かぶ[言葉]となっていた。

生きる中で受ける様々な[困難]と向き合いながら…。

[雨ニモマケズ、風ニモマケズ…]

と歯を食いしばって生きてきた。

やがて、つぶちゃんとの別れ経験し、[その場所]で向き合うようになった時も、暑さや寒さと向き合う事となる。

一般的なお墓参りとは違い、一時間近くをパイプ椅子に腰掛けながら[想い]を通わせていく。

またそれは、僕の内側を凪にリセットする時間にもなっている。

時には雨に打たれながら…

またある時は、冷たい風にさらされながら…。

日照りに身を焦がしながら…。

[雨にも負けず 風にも負けず]

それは続いていく。

そんな中での[気づき]がある。

[雨にも負けず]

[風にも負けず]

それでは[闘い]なのである。

[闘う]のではなく、[受け入れる]のだ。

歯を食いしばるのではなく、身体のチカラを抜き、全てを委ねるのだ。

自身の内側に[愛]が宿っているならば、それで心の中の嵐は凪へと変わっていく。

そして、

これでいいのだ。(バカボンパパの口癖)

その境地に辿り着く。

改めて宮沢賢治の詩を読んだとき、それは身体の自由を奪われて、余命幾許もない自身の命に対する不平や不満にも感じるのである。

しかし、[輪廻]とは繰り返し。

何度生まれようと、その[課題]は繰り返される。

だからこそ、

生きている[今]、

その[課題]と向き合い、

[シナリオ]を書き換えていくのだ。

[愛]あるシナリオへと。

その[愛]が、[真実の愛]に成長できたとき、ツインソウルの[統合]の瞬間なのである。

そのステージを僕は生きている。

死を迎えるとき、僕を包み込む全てに[ありがとう]と魂からの感謝ができるように備えて生きていく。

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