また今年も、暑い季節が巡ってきた。
セミも鳴き始め、つぶちゃんのお墓の周りも、様々な小さな[命]の営みが見てとれる。
特に感じるのは、今年はアマガエルやツチガエルの赤ちゃんが多い事である。
庭のあちこちで、小さな身体が跳ねている。
身体が小さいのに加え、ツチガエルの赤ちゃんともなると保護色の身体と地面が相まって、気づかずに踏み潰してしまうのではないかと心配になる。
したがって、庭を移動する時は前屈みになって、足元を確認しながら慎重に移動する。
足音に反応して逃げるだろう。
そう思うところもあるが、意外と赤ちゃんカエルは反応が鈍いのだ。
そして先日…。
気をつけていたにも関わらず、悲劇は起きてしまった…。
玄関マットに乗った時、自分の靴先に目をやると…。
そこには、潰れてしまったツチガエルの赤ちゃんの姿があるではないかっ!
気をつけているにも関わらず、何故起きてしまうのか…。
気をつけようという[意識]が、それを現実に[引き寄せ]てしまっているのか…。
早速、僕は法衣に着替え、亡き骸を弔うことにした。
カエルちゃんの亡き骸を線香の粉で包み、つぶちゃんのお墓の横に埋葬することにした。

埋葬を終えると、僕は読経でカエルちゃんを包み込んだ。
僕の想いの中で…。
僕の読経に包まれて…。
癒されてね。
そんな想いを込めて…。
そして
読経を終えて、
線香を手向けたお墓に目をやると…。
そこには、
一匹のツチガエルの赤ちゃんが、
立てられた線香に寄り添いながら、
墓石を見つめているのであった。

この、偶然と呼ぶにはあまりにも劇的な[シンクロ]に、きっと仲間が弔問に訪れてくれたんだと解釈した。
そして、
いつも言うように、
[目に映る景色は、僕の内側の景色]
この[弔問客]のカエルくんは、こうやって弔っている[僕の姿]なのだ。
同時に、
踏み潰されカエルくんの姿も、
[僕の姿]なのである。
でも、ちゃんと弔ってもらえている。
僕の生き方は、間違っていない。
これでいいのだ。
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