人は生きる中で、様々なプレッシャーと向き合わなくてはならない時がある。
それは時に、自分の許容範囲を遥かに超えた[圧力]のときも…。
そんな[苦しみ]を少しでも和らげる事ができたらと、[瞑想]に取り組み始める人たちがいる。
僕も[ツインソウル]との出会いをきっかけに始まった、自分の内側の[浄化]の苦しみを少しでも楽にできたらと思い[瞑想]に取り組み始めた。
そこで得ることのできた[気づき]を、今回は伝えていこうと思います。
そもそも、
[瞑想]とは?
瞑想とは、
別の呼び方をするならば
エゴからの脱却なのである。
エゴ(自我)があるから[苦しい]のである。
だから、エゴを捨てればよいのだ。
スポーツに例えるならば、
アスリートがライバルと、陸上競技の短距離走で勝負したとする。
残念ながら結果は、ライバルに負けてしまったとする。
負けた悔しさや、自分に対する怒りが湧き上がる。
その悔しさや怒りは、アスリートにとっては[成長]へと繋がることもある。
それは[負けた]という[マイナスエネルギー]を、[希望]という[プラスエネルギー]に変換できたときである。
[成長して、次こそは!]と。
そして[再戦]を迎えたとき、その重圧は大きくのしかかってくる。
[今度こそは勝てるだろうか…]
[あれだけ練習したんだから、勝てないはずはない。自分を信じるんだ。]
[勝ちたい]という欲望が、様々な[煩悩]を生み出していく。
確かにアスリートにとっては、勝つことは重要である。
しかし[瞑想]は、
更にその上の[次元]をいくのである。
先ほど述べたように、
[瞑想]とはエゴ(自我・欲望)からの脱却なのである。
[勝ちたい]という欲望…
そして、
[勝った!]という喜び…
[負けた]という苦しみからの脱却なのである。
その場所にライバルと共に立てているという[幸福]に気づき、勝ち負け以前の[原点回帰]なのである。
スタートラインに並ぶ二人の、その[景色]への感謝に辿り着くこと。
それが[瞑想]の大きな意味なのである。
アスリートに例えてみましたが、
[瞑想]とは自我を捨て去ること。
[無]の状態となり、
自分を俯瞰(ふかん)すること。
その取り巻く[環境]を全て受け入れて、
[これでいいんだ。]に辿り着くこと。
勝とうが、負けようが、どっちでもいい。
僕はここに、ちゃんと[存在]している。
その[原点]に帰り立つことが、
[瞑想]なのである。
そして[原点(種)]に辿りつけた時、
そこには[種]がやがて成長し、実を成す[希望]が存在しているのである。
それが、僕の瞑想。

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