僕が小学1年生の時に、姉たちに連れられて劇場で観た映画…
THE EXORCIST
“悪魔払い”という、神父と悪魔の闘いを描いた作品である。
少女にとり憑いた“悪魔”を払うために、二人の神父が“それ”と向き合う。
神父たちに対して、“悪魔”は罵詈雑言を吐き捨てる。
口からヘドを吐いて神父の法衣を汚し、
顔にツバを吐きかける。


そんな“おぞましい姿”となった少女を救うべく、神父は神のチカラを信じて闘うのである。
やがて、
二人の神父の命と引き換えに、
少女は“それ”から解放された。
この壮絶な作品は、
幼い僕を“闇”へと引き込んだ。
その夜から僕は、長い不眠症との闘いが始まったのである。
「僕の中にも“それ”はいるんじゃないか…。」
そんな“不安”が植え付けられる事となった。
「6才で経験したこの“衝撃”は、いったい僕の人生に対してどんな“意味”を持つのだろうか…。」
そんな疑問を胸に生きてきた。
それから長い年月を経て、
“ツインソウル”と出会ったことによって始まった“内側の大掃除”である。
そこで見た“鬼”たちに、
僕はその“意味”の答えを知ることとなる。
THE EXORCIST
そこに描かれていたもの…
それは正に、今の僕の“闘い(大掃除)”の姿であったのである。
あの時の6才の僕は、
未来で迎える“景色”をあの作品で擬似体験していたのだ。
そして今日…
“それ”は現実となって僕の前に現れた。
命日の供養の依頼があり、伺ったお宅での出来事である。
読経を勤めた後にお茶を頂きながら雑談をしていた時、そのお宅のお爺さんが家族に噛みつき始めたのである。
供養のプラスのエネルギーの中で、揉め事が起きるなんて事はあってはならない事である。
供養を汚す行為である。
お爺さんが病気を抱えており、身体も不自由であるとしてもである。
家族はいろいろとお爺さんに尽くしているのであるが、その施しに“感謝”がいかず、
理不尽な“怒り”をぶつけていた。
そのお爺さんとは気心知れた間柄である僕は、
良かれと思い“感謝”について話をすると、
今日はいつもと違った。
“怒り”の矛先は僕に向けられ、
お爺さんの口から発せられる罵詈雑言の数々…。
僕という“存在”を否定し、
完膚なきまで叩き潰そうとする“怒り”のエネルギー。
僕はすぐに感じた。
「これが“エクソシスト”の闘いの中で、神父が悪魔に浴びせられた“挑発”だ!」
「僕は今、“あの作品”の神父を味わっているんだ。」
そう思った時、
僕の心の中はワクワクした気分となり、
イタズラな子供に戻ったかのように、
更に“悪魔”の嫌がる“愛”を説いていく。
その“愛の言霊”を否定しながら、“悪魔”は必死の抵抗をみせる。
すると、
お爺さんは更にエキサイトして…。
「出ていけ!この家の敷居をまたぐな!」
家族のみなさんも、お寺さんに対して暴言を吐く“悪魔”と化したお爺さんに、恥ずかしい気持ちを滲ませながら針のむしろ状態となっている。
僕は“暴言”を意に介さず、“悪魔”を笑顔で見つめ続ける。
やがては“お爺さん”の孫や娘も僕に加勢し出すと、そこは供養を施した空間とはほど遠い“戦場”と化して行った。
これ以上、“悪魔払い”を楽しんではいけない。
僕は腰をあげた。
駐車場まで見送りに来てくれた家族達は皆、申し訳ない旨を伝えてくれた。
「全然、大丈夫ですよ!気になさらずに。」
僕は笑顔で伝えた。
どちらかと言えば、むしろ清々しい気分でもあったから。
[“内側”が“外側”の景色を創る]
僕がいつも言う言葉である。
僕が今日闘った“悪魔”とは、
僕の内側の“悪魔”なのである。
僕は今日、内側の“悪魔”と対話できたのである。
これも“ツインソウル計画”である、内側の“浄化”とシンクロした出来事なのである。
おそらくお爺さんは、あのまま変わる事はないだろう。
しかし、僕は“気づく”ことができたのだ。
“怒り”なんて必要ない。
手放すべきなんだと…。
そんな二人の“相反”するプラスとマイナスのエネルギーが、“エクソシスト”のシーンの如く、現実世界に創り出されたのである。
僕とお爺さんで今日は、”エクソシストごっこ”を楽しんだという事なのである。

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