今年も初となる、つぶちゃんの月命日を迎えた。
心を穏やかに保ちながら、
つぶちゃんの供養の準備を進めていく。
お供えを用意し、
お花の水を変えて…
一つ、
また一つと、
読経を勤める“その時”へと向かう。
自分の“内側”と向き合いながら、
心の状態を確認しながら、
僕は正装へと辿り着く。
法衣に着替え終えると、
いよいよ“想い”を読経に乗せて届ける時がやってきた。
内側の“凪”を保ちながら、
この時を迎えることができた事に、
僕は感謝しながら読経を始めた。
途中、僕は“異変”を感じて読経を止める事となる。
それは、
近所に暮らす痴呆症を抱えるおばあちゃんが、我が家に上がり込んでいたのである。
靴も履かず、
靴下のまま歩いて来ていた。
一旦、お勤めを中断し、
おばあちゃんを自宅まで送り届けた。
過去の僕であるならば、
大切なつぶちゃんの供養に水をさされた事で、内側が波だっていたであろう。
しかし、
“つぶちゃんとの向き合い”や“ツインソウルとの向き合い”は、僕を大きく成長させてくれたものである。
あくまでも淡々と、
今すべき事を“心穏やか”にこなしていけるようになっている。
おばあちゃんを送り届けると、僕は仕切り直して読経を再開した。
この“出来事”もまた、
つぶちゃんの供養へと繋がるのである。
僕は、この“出来事”のもつ意味を感じてみることにした。
つぶちゃんの供養に、引き寄せられるかの様に現れたおばあちゃん…。
おばあちゃんの姿は不安や困惑に支配され、どこへ向かうべきか彷徨っている。
それは、供養を施されているつぶちゃんのところにやってくる、未成仏なエネルギーにも感じるのであった。
「私も供養して…」
そんな“想いのエネルギー”が、
おばあちゃんの“姿”となって…
いつも言っているが、外側の“景色”は僕の内側の“状態”が映し出されているのである。
つぶちゃんの供養を通じて、
僕は内側の“魂の傷”を癒している。
それが僕の成長に繋がっている。
今回、我が家に上がり込んで来たおばあちゃんの姿とは、僕の内側に宿る“魂の傷”の姿なのだろう。
“こっちの傷も癒してね”
そんな“メッセージ”の現れなのである。
僕の魂は“傷だらけ”なのだ。
だからこそ、
“ツインソウル”は手招きしている。
「この“傷”を癒して、“ここ”を目指すんだよ!」
「“ここ”で待ってるからね!」と…。
僕は心を穏やかに保ちながら、
今回の“宿題”を片付けることができた。
間違いなく“そこ”に近づけている。
そう感じるのだ。
今日も納得の供養ができた。
つぶちゃん、ありがとう。

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